● Leo Buerger(P 1879〜1943、オーストリア生まれアメリカ人、内科医、泌尿器外科)が1908年に初めて報告したので、Buerger病とも呼ばれる。
● 難病、厚生労働省特定疾患に指定
● 四肢末端の小動脈に好発する、反復性の原因不明の血管炎をきたす疾患。その結果、四肢や指趾の虚血症状を起こす疾患。
● 20〜40才の比較的若い男性に多く発症する。男女比は9.7対1。
● 最近の全国調査では約1万人。アジア人、東ヨーロッパ人に多いことが知られている。
● 現在はBuerger病の臨床診断基準として,(1)喫煙歴、(2)50歳前の発症、(3)膝窩下動脈の閉塞、(4)上肢をおかすか,遊走性静脈炎がある,(5)喫煙以外、動脈硬化の危険因子がない、の5項目が上げられている。
● 原因不明であるが、本症の患者のほとんどは喫煙者であり,タバコは原因ではなくとも本症の病状進行に何らかの関与をしていると考られる。
● 三代目澤村田之助はTAOによる脱疽のために、両手両足を切断したと考えられる。(田之助は、TAOの記載の前に亡くなっている。)
[症状]
● 足では「膝から先」、手では「肘から先」に主に症状が出る。
初期症状 | ● ASOに比べると、比較的短期間のうちに、中小動脈が冒され、潰瘍が強く、「手足の痛み(安静時痛)」を伴うことが多い。 ● 他に血行障害として、「冷感」、「しびれ感」、「レイノー現象」 ● 下足の先が紫色に変色する「チアノーゼ」の症状。 ● 何となく体がだるいなどの症状を訴える人もいる。 |
↓ | ● 間歇性跛行:次第に歩行困難が現れる。長く歩くと、ふくらはぎの部分が痛くなって正常に歩行できなくなり、少し休むとまた歩けるようになる。ASOと比較すると間欠性跛行を訴える頻度が多い。 ● 病変部は栄養状態が悪く、わずかな傷からの細薗感染にも対抗できないため、ちょっとした刺激から化膿性の炎症を起こすようになり、潰瘍が発生することもある。 ● 遊走性静脈炎(皮下静脈の発赤、硬結) |
病変がさらに進むと、 | ● 特発性脱疽:病変部が壊死し、腐って崩れてる。それを放置すると命に関わるので、やむを得ず手足を切断しなければならない。 ● 皮膚が縮んだり、つめが変形したりすることもある。 |
● 病理学的には、血栓形成を伴う血管全層炎であり、動脈造影で四肢末梢動脈の先細り方閉塞、途絶型閉塞が認められ、末梢側の開存はほとんどの症例で認められず、手術適応は少ない。
[痛みの特徴]
● 進行したTAOはひじょうに激しい、耐えがたい痛みを伴うのが特微
● 昼よりも夜のほうが痛みが強く、眠れなくなることもある。寝ているよりも座っているほうが楽で、痛みに耐えるため、膝を抱えてうずくまるような姿勢をとる人も多いようだ。
[厚生省特定疾患難治性血管炎調査研究班で策定した治療方針]
治療の原則 | ● 禁煙の励行、間接的喫煙も含む。 ● 病変四肢ならびに全身の保温、寒冷暴露をさける。 ● 病変四肢の清潔を保ち、靴ずれなどの外傷を避ける。 ● 規則正しい歩行訓練、運動療法 |
薬物療法 | ● 軽症例では経口薬物療法を行い経過を観察する。 ● 重症例では原則入院として、経口薬物療法に加え注射用薬剤による治療を行う。 薬物治療としては血小板凝集抑制薬、血管拡張薬、抗凝固薬、血栓溶解薬などを用いる。 |
外科治療 | 悪化例、重症例で薬物療法が無効な場合、血管専門医を受診し、血管造影検査を行って血行再建術や交感神経節ブロック、指趾切断の適応を決める。 |
血管には、血管を収縮させる交感神経が分布している。下肢に分布する交感神経は、腰部交感神経から出ているので、腰部交感神経を切除すると、それまで狭くなっていた動脈が拡がって、下肢の温度も上昇する。
三代目澤村田之助(弘化2年1845/1/8〜1878/7/7) 名門・紀伊國屋の当主、五代目澤村宗十郎の次男でとして江戸に生まれた。 美貌美声、それに一種の陰影のある怪しさで、幕末から明治初期にかけた人気をほしいままにした歌舞伎の立女形。 閉塞性血栓血管炎: TAOによる壊疽のため、足を切断し、日本で初めて義足をつけた日本人 |
● 安政6年(1859年)正月、三代目澤村田之助を襲名する。翌年春、弱冠16歳で立女方の地位を得て、河竹黙阿弥の作品に次々と出演しています。
● 大政奉還を控えた慶応3年(1867年)の3月18日、守田座で、黙阿弥作の「魁駒松梅桜曙微」通称「紅皿かけ皿」の所演のとき、松の木に吊るされて継母に責められる場面で、綱が切れて落下し、舞台で足を痛めた。
● 田之助の左足のけがは意外に重かった。当代一流の漢方医にかかったがはかばかしくなく、横浜居留地で施療事業を行っていたJames Curtis Hepburn(P ヘボン、1815/3/13〜1911/7/11、ヘボン式でも知られるアメリカの宣教師で医師)博士が脱疽と診断し、放置すると命に関わるので、すぐに切開手術を勧める。
● 「いやだ、足がなくちゃ舞台に立てねえ」とだだをこねる田之助を説き伏せ、ヘボンは手術を行った。1867年9月15日に、クロロホルム麻酔下に右膝関節を切断した。
● 当代の人気役者田之助の手術は世間の喝采を浴び、錦絵になった。
● 9月30日横浜から江戸にもどり、翌10月興行の千秋楽に「藤娘」を踊り喝采を浴び、2人の後見に支えられ義足をつかっての舞台をつとめ始めた。
● はじめ江戸の活人形師松本喜三郎が作った義足を用いたが、うまくゆかなかった。翌年田之助の頼みでヘボンがアメリカに発注したセルフォ社製のゴムの義足が届く。代金は200両であったという。義足をつけた田之助は喜んで義足を着け、舞台に立ったところ、義足の舞台ということで人気が再沸騰し、大入りを続けた。この話が伝わると庶民は「ヘボンさんでも草津の湯でも、恋の病は直りゃせぬよ、チョイナチョイナ」という俗謡をつくり、ヘボンを称え、崇拝した。田之助は江戸三座(市村座、守田座、中村座)を掛け持ちして舞台にはげんだ。
● ヘボンの忠告にもかかわらず、飲む、打つ、買うがやめられず、まもなく左足も脱疽となって、明治3年(1870年)4月、旧幕府御医師・松本良順門下の南部精一により左足を切断
● 両足を切断され絶望する田之助に戯作者である黙阿弥は、「今のお前だけが演じられる役がある!」ともう一度舞台に立たせようとする。それは切られお富という役だった。
● 次いで右手は手首から先を、左手は小指を残し指を切断。
● 近松門左衛門の名作「国性爺合戦 」の1場面を書き換えた、「国性爺姿写真鏡」という狂言にて、唐人風の髷と衣裳に身を包んだ、芸者こきんという役で引退興行となる。明治5年(1872年)正月。三代目田之助28歳のとき。その後は地方巡業。明治11年(1878年)東京で亡くなる、享年35歳
■ 動脈炎 arteritis
◇高安動脈炎 Takayasu arteritis:TA
○ 指定難病40
○ 1908年に日本の眼科医の高安右人博士が報告した。
○ 2012年の国際Chapel Hillコンセンサス会議(Chapel Hill Consensus Conference:CHCC)において大血管の血管炎に分類され、その疾患概念は「大動脈およびその第1分枝を優位に侵す、しばしば肉芽腫性となる血管炎
○ 一般的に50歳より若年に発症するもの」と定義されています。脈が触れない症状から「脈なし病」、大きな血管を侵すことから「大動脈炎症候群」とも言われる。
○ これらの血管に炎症が起こることで、血管の狭窄や拡張などにより、様々な症状をもたら。
○ 明確な原因はわかっていないが、血管炎の組織の中にはマクロファージやT細胞などの多くの免疫担当細胞がみられること、ステロイドや免疫抑制薬などによる免疫抑制療法が効果を示すことが多いことなどから、免疫異常が関与していると考えられている。
○ 一部にはHLA-B52やHLA-B39、HLA-Bの近傍にあるMICA遺伝子と発症との間に遺伝的な関連性も指摘されている。
○ 6.4動脈炎による頭痛 →6.4.1 巨細胞性動脈炎 @ICHD―3β ←→巨細胞性動脈@口腔顔面痛
○ 指定難病41
○ 大型・中型の動脈に巨細胞を伴う肉芽腫を形成する動脈炎である。大動脈とその主要分枝、特に外頸動脈を高い頻度で傷害する。しばしば側頭動脈を傷害する。
○ 以前は「側頭動脈炎」と呼ばれていたが、現在は「巨細胞性動脈炎」とその名称が変更された。50歳以上の高齢者に発症し、若年者に発症する高安動脈炎と対照的である。男女比はほぼ1:2〜3である。
○ しばしばリウマチ性多発筋痛症を伴い、両者は極めて近似した疾患と考えられている。地理的な偏り及び遺伝素因が認められ、欧米白人に多く、日本を含めアジア人には少ない。
○ 約3分の2の症例で側頭部の頭痛を認める。下顎跛行は約半数の症例で認める特徴的な自覚症状である。血管炎による血流低下・消失による虚血性視神経症のため、発症初期に視力・視野異常を呈し、約20%が視力の完全又は部分性の消失を来す。患者の40%にリウマチ性多発性筋痛症を認め、リウマチ性多発性筋痛症の約15%は巨細胞性動脈炎を合併する。全身症状として発熱(多くの場合は微熱、ときに弛張熱)、倦怠感を約40%の患者で認める。咳嗽、咽頭痛、嗄声などの呼吸器・耳鼻科領域の症状、末梢神経障害を認める。一過性虚血発作、脳梗塞などの神経症状は約15%に出現する。まれに舌梗塞や聴力・前庭障害など耳鼻咽喉科領域の症状も認められる。
○ 2分の1程度の患者に、新たに発症した咀嚼時のあごの痛みがみられ、巨細胞性動脈炎に特徴的な症状の1つといわれる。咀嚼筋痛が主訴となりうる。 ←→非定型顔面痛
○ 治療法:プレドニゾロン治療を開始する。失明の恐れがある場合には、ステロイドパルス療法を含むステロイド大量療法を行う。経口ステロイドは4週間の初期治療の後に漸減する。副腎皮質ステロイド維持量を必要とする症例が多く、漸減は更に慎重に行う。ステロイド抵抗性の症例、ステロイドの漸減に伴い再燃する症例においては、メトトレキサート(MTX)を中心とした免疫抑制薬の併用を検討する。失明や脳梗塞を予防するために低用量アスピリンによる抗凝固療法を併用する必要がある。
■ 間欠性跛行(間歇性跛行) Intermittent claudication
「Intermittent claudicatio」は第4代ローマ皇帝Tiberius Claudius Drusus Nero Germanicus(BC10/8/1〜AD 54/10/13, 在位41〜54、ネロの前の皇帝、毒キノコにより死去)に因んだ用語。ラテン語の「claudicare」(英語:to limp、足を引きずる)から来ている。
1859年:Jean Martin Charcot(P 1825〜1893, サルペトリエールの病理解剖教授、パリ大学第初代神経学教授)が総腸骨動脈閉塞による動脈性間欠性跛行を発見した(Compt Rend Soc Biol)。 |
1911年:Joseph Jules Dejerine (P 1849〜1918, パリ大学第3代神経学教授)は、脊髄性間欠性跛行を報告(Rev Neurol)し、血管性の跛行と神経性の跛行を区別した。 |
● ある程度歩くと痛みを感じるが、少し休むと又歩けるようになる症状。
● 歩いていると、筋肉の中で発痛物質が作られる。それがふくらはぎの下腿三頭筋に溜まって痛みが起こり、一休みすると、発痛物質が洗い流されて、痛みが消える。
● 左右どちらかの足におこることもあれば、両方におこることもある。
● 間欠性跛行を起こす疾患
1. 閉塞性動脈硬化症:ASO
2. 閉塞性血栓血管炎:TAO
3. 腰部脊柱管狭窄症:LSS
間欠跛行の 見分け方 |
神経性間欠性跛行 neurogenic intermittent claudication |
血管性間欠性跛行 vascular intermittent claudication |
腰部脊柱管狭窄症 lumbar spinal canal stenosis:LCS |
末梢動脈疾患 Peripheral Arterial Disease:PAD |
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痛みの特徴 | 歩き始める ↓ 痛みが走る ↓ 前屈みで痛みが和らぐ ↓ また歩き始める。 ・下肢全体にしびれ感 ・痛みやしびれが、動いているときだけでなく、じっと同じ姿勢を続けた時にも起こる。 ・重だるい、突っ張るような痛み |
歩き始める ↓ 痛みが走る ↓ 立ち止まると痛みが和らぐ ↓ また歩き始める。 ・ふくらはぎを中心とする痛み ・一定の距離を歩くと、足の裏やふくらはぎ・太もも・臀部などに痛みを感じ、歩行を続けられなくなる。しばらく休むと回復するが、再び歩き続けると痛くなる。 |
自転車 | 痛みはでない! | 歩いているときのように痛みやしびれがある |
立位負荷テスト | 立位5分程度で下肢のしびれや痛みが生じる。 | 立位だけでは痛みは生じない。 |
姿勢因子 | 前屈位で下肢痛が軽快する。 | |
足背動脈の拍動 | 正常 | 低下 |
ABPI* | 下肢血圧が低下(0.9未満) (糖尿病や透析では動脈硬化を有する場合には、1以上になることがあるので注意) |
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重症化 | 下肢の麻痺や尿や便失禁などの膀胱直腸障害にいたる | 下肢の壊死など最悪の例では下肢の切断 |
■ 肢端紅痛症(先端紅痛症) erythromelalgia
尖端熱性紅痛症 erythermalgia
四肢末梢の紅潮、皮膚温の上昇、灼熱痛を三徴とする、きわめてまれな症候群。
● Mitchell’s disease とも呼ばれている。カウザルギーを報告したSilas Weir Mitchell(P 1829/2/15〜914/1/4, 米内科医)が1878年に最初に記載し、「erythromelalgia」と命名した。
● ギリシャ語 erythros (=redness) + melos (=extremity, limb) + algos (=pain)
● SmithとAllen EAが1938年に再分類し、特に熱を特徴とするものを 「erythermalgia(尖端熱性紅痛症)」と呼んだ。
● 皮膚の細動脈が周期的に拡張し、焼けつくような痛みや熱感を起こし、足と、それより頻度は低いですが手に発赤を起こす稀な症候群
● 症状はレイノー症候群と全く逆であるが、末梢の栄養血流の減少に起因して痛みが生じる点は同じである。末梢での動静脈シャントが開閉しているが、毛細血管前括約筋が狭窄しているため、総血流量が増加するが、栄養血量が減少するといった血流の不均衡が原因となると考えられている。
● Erythralgiaとerythromelalgiaは違うか、同じか?
○ 骨髄増殖性疾患、高血圧、静脈不全、糖尿病、関節リウマチ、硬化性苔癬、痛風、脊髄障害、多発性硬化症の人でもみられることがある。
○ 降圧薬のニフェジピンやパーキンソン病の治療薬であるブロモクリプチンなどの薬の使用に関連していることもある。
○ 先端紅痛症は原因となっている病気が診断される2〜3年前に発症する。
○ ドクササコによる食中毒。
◇原発性肢端紅痛症 primary erythermalgia
◇家族性肢端紅痛症 Familial erythermalgia
○ ド児童と青春期に多く発病する常染色体優性遺伝病を呈する肢端紅痛症
○ ドナトリウムチャネルの閾値を低下させるNav1.7をコードする遺伝子SCN9A(sodium channel, voltage-gated, type IX, alpha subunit)の変異が、原発性肢端紅痛症や、直腸・眼球・顎下腺に突発的な痛みが生じる発作性激痛症(Paroxysmal extreme pain disorder: PEPD)
■脱疽=壊疽 gangrene
● 疾患あるいは血行障害によって、局所的に壊死に陥った組織が腐敗、融解し、組織の表面が黒変した状態をいう。
● 時間が経つと黒色や褐色に変色し、悪臭を放ち、壊死部分が脱落する。
● 壊疽がひどくなった四肢などは切断を余儀なくされ、幻肢や幻肢痛となる場合もある。
◇糖尿病
● 末梢性の神経障害を基盤として、動脈閉塞を起こして、足の潰瘍、壊死が生じる。
(Small fiber neuropathy 小径線維ニューロパチー)
● 糖尿病壊疽の特徴は、動脈硬化に基づく血行障害と異なり、痛みを感じる知覚神経が麻痺してしまい傷ができたことに気が付かず、悪化させてしまうのが主な原因です。
● 糖尿病性閉塞性動脈硬化症の病状は重症で、壊疽が急速に進むため手遅れになって下肢の切断に至る場合が多い。
● 重症である3つの大きな原因
o 下腿動脈の多発分節性狭窄、閉塞
o 下腿動脈—足部動脈の石灰化による血行障害
o 毛細血管の血行障害(神経障害による血管反射の障害による)
◇バージャー病
下肢動脈に好発して、冷感、シビレ感、寒冷暴露時のレイノー症状を認め、ひどくなると間欠性跛行や安静時疼痛が出現し、閉塞がひどくなると四肢に皮膚潰瘍、壊疽が起こる。四肢の動脈が閉塞すると、閉塞した動脈の拍動は触知されません。
血流の障害や足の小さな傷がもとになって壊疽を起こす場合があり、感染症の危険から全身を守るため、壊疽を起こした足を切断することがある。
◇ガス壊疽 gas gangrene
ガス産生菌の感染により、皮下組織内にガスがみられる進行性の皮下感染症。ガスの産生によって、患部を圧迫すると捻髪音を発するので、ガス壊疽という。
古典的な例では高度の挫滅創などに嫌気性グラム陽性桿菌であるClostridium属(C. perfringensなど)が感染することによって起こる感染症。
Clostridium属によるガス壊疽では、数日の潜伏期を過ぎて、急速に皮膚の水疱や血行障害を起こし、筋肉組織が壊死となり広がる。
高圧酸素療法が有効
◇その他の原因
汚穢な外傷、四肢絞扼性挫滅、火傷、血行障害など。
◇肺壊疽gangrene of the lung
肺壊疽とは、細菌感染によって肺組織が化膿してうみがたまり、組織が破壊される病気の総称です。(肺化膿症、肺膿瘍も同様)
最初はたんやせきなど肺炎の症状と似たところが多いが、発病後1週間程で粘液膿性たんが多量に出る。また、たんが鉄さべ色をして悪臭を放つ事があり、これは肺化膿症の特徴的な症状
原因は飲み込んだ物が誤って気管に入ったり、胃の内容物が気管に入って起こることがほとんど
肺壊疽の治療は、ペニシリンを始めとした抗生物質による化学療法が中心
適切な抗生物質の服用でほとんどの場合、病状は改善し、外科手術が必要なケースは稀
診断には、胸部X腺検査、血液検査、喀痰細菌検査を用い、治療はおもに化学療法によりますが、手術による肺切除が行われることもある。
◇聖アントニウスの火
ヨーロッパ中世の3大疫病の一つ
聖アントニウスの火は、中世を通じてアルプス以北のヨーロッパで繰り返し流行した、麦角アルカロイドによる中毒である。
手足の血管が収縮して循環が悪くなり、赤く脹れたり痛んだりした後、重症になると壊疽を起こして炭のように黒くなって崩れ落ちる。妊婦は死産し、脳神経系にも作用して幻覚や痙攣なども現れた。
「聖アントニウスの火 St. Anthony’s fire」「聖なる火 Ignis saccer = Holy Fire」「麦角病 Ergotism」
● ヨーロッパ中世の3大疫病の一つ(他の2つは、ペストとコレラ、あるいはペストとハンセン病)で、原因不明の病気として恐れられた奇病
● 「聖アントニウスの火」は、中世を通じてアルプス以北のヨーロッパで繰り返し流行した麦角アルカロイドによる中毒病
● 突然手足がしびれ、全身が痙攣し、そのうち四肢に灼けつく感覚を引き起こし、黒ずんで、やがて手指はちぎれて落ちてしまう。四肢が焼かれるようになったのは、神が下した「聖なる火 ignis saccer」によって持たらされたと考えられていた。
● 聖アントニウスもこの病のために、足を失いながらも長生きをし、難行苦行をした後、様々な奇跡を起こしていた。多くの患者は、罪をあがなうために、聖アントニウスのゆかりの地に巡礼した。貴族のGaston de la Valloireも、「聖なる火」に侵された息子Gerinのために、聖アントニウスの聖遺骨に祈ったところ、病気が良くなった。
● 医学的に説明のつかない中世では、悪魔表意の印ともみなされ、患者は魔女裁判にかけられたりもした。アメリカの植民地時代にも、魔女狩りがあった。その当時産婆 midwivesは、麦角を陣痛促進薬として用いたり、またさまざまな薬草を利用して心身の病を取り除いていたので、魔女狩りの被害者となった。
● 壊疽性の症状は、毛細血管に作用し、手足の血管収縮の結果、赤く脹れたり痛んだりした後、重症になると壊疽を起こして炭のように黒くなって崩れ落ちる。
● けいれん性の症状は、神経に作用し幻覚を見せたり、てんかんを起こさせる。
● 妊婦は死産し、脳神経系にも作用して幻覚や痙攣なども現れた。 [原因] ● 1670年にThuillier(フランスの内科医)が、「聖アントニウスの火」が麦角のあるライ麦から作られたパンによって発生することを解明した。
● 1853年にLouis Rone Tulanseがライ麦ではなく、ライ麦に寄生する Clavices purpurea(麦角菌)などの菌が原因であることを解明した。Clavices(=カニの頭) + purpura(=紫) [巡礼] ● 「聖なる火」はキリスト教圏内では、「犯した罪」に対する「むくい」として課せられた、手足の焼けるような感覚と黒変による「罰」であると考えられた。つまり「神による罪人への罰」だと考えた。(この当時、「聖アントニウスに焼かれてしまえ」などといった呪いの文句が人々の間を飛び交っていたらしい。) ←→痛みとは
● 「聖なる火」に対する治療方法が見つからないので、人々は教会へと救いを求めることとなった。特に、彼らは数々の病気を「奇跡」によって治療したことから、火災や伝染病、そしててんかんなどから守護してくれると言われる聖人、聖アントニウスに祈りを捧げたと言われている。
● 11世紀頃から、故郷を離れ、聖アントニウスのいたエジプトや、アントニウスの聖遺骨のあるDouphine州のSaint-Didier de la MotheのSt. Anthony教会、イーゼンハイム教会へ巡礼することが流行し、「聖アントニウスの奇跡」により症状が治まったという。
● 巡礼によって、転地療養と同じ効果を得られたこと、巡礼の最中麦角に汚染されたライ麦パンを口にしなくなることなどが大きな要因になっているとされる。
聖アントニウス、聖アントニウス、大アントニウス(St. Anthony the Great) (AD251〜356) (=Saint Anthony of Egypt, Saint Anthony of the Desert, Saint Anthony the Anchorite, The Father of All Monks, Patriarch of monks 修道士の父)
o Anthony という名前は、ana (=上に)、tenens (=保持している)、の合成語で、「上なるものを保持し現世を軽蔑する者」を意味するらしい。 o Athanasius(アタナシウス、295?-373、新約聖書の現在の形にしたアレクサンドリアの司教)の「Greek vita」の中で、聖アントニウスの経歴が書かれている。 o アントニウスの十字架と呼ばれるT字形の十字架を持つ。ほかに、鈴、豚など。 o 修道院制度の創始者と考えられ、しばしば修道士の姿で描かれている。 o 11世紀以降は疫病、聖アントニウスの火やペストの守護神となった。
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● コブト人で、中部エジプトのコマという村(現在のクマン、Heraclea の近く)の裕福な家に生まれた。
● 20歳頃に、裕福な両親が亡くなった後に、教会で「もしあなたが完全になりたいと思うなら、帰ってあなたの持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい。 そうすれば、天に宝を持つようになろう。そして、わたしに従ってきなさい。」(『マタイ伝』第十九章の21) というキリストの言葉を聞き、妹を遺して、隠遁生活にはいる。
● 彼は何度も苦行を行った。禁欲生活の中で、精神上、肉体状の激しい誘惑を体験するが、ついにそれに打ち勝った。多くの画家達が「聖アントニウスの誘惑」として、彼が行った苦行を題材として描いている。
● 最初の苦行は、アレクサンドリアから95km離れた砂漠のNitra in Latin (現在:Wadi al-Natrun )に移り住み、隠修士として瞑想と苦行の生活を送った。経験をつんだ苦行者達からアドバイスを受けながら、苦行に身を投じた。悪魔が現れて、聖アントニウスを誘惑する。最初の誘惑は、彼が断ち切っていた現世の家族の絆・金銭欲・名誉欲・食欲・人生の楽しみ事など。次いでは美徳が要求する辛い労働を問題にしながら、苦行をすぐに止めるようにと挑み、最後には美女に化けて苦行をすぐに止めるようにと誘惑したが、アントニウスは何とかこれに打ち勝った。
● 第2の苦行は、24,5歳頃から35歳頃まで、村から遠く離れたところの地下墓地で苦行生活をおくった。第2の誘惑はまず、悪魔率いる魑魅魍魎どもとの戦い。次に猛獣に姿を変えた悪魔との戦い。アントニウスは孤軍奮闘すれども全身傷だらけ、息も絶え絶え。そうなった時、天から一条の光が差して来た。アントニウスは「主よどこにおられたのですか?なぜ最初のときはここに来てくださらなかったのでしょうか?それになぜわたしの傷も治してくだされなかったのでしょうか?」と言うと、「アントニウスよ、私はあなたのそばにいた。 しかし、あなたの戦いぶりを見たかったからそのままにしていたのだ。 あなたは実に勇敢に戦った。 私はこれからいつでもあなたに救いの手をのべよう。 そしてあなたの名声を広く伝えよう」と言う声がどこからともなく聴こえた、と言う。
● 第3の苦行は、35歳頃(AD285年)にナイル川を渡ってテーベの砂漠に入り、約20年間ピスピル Pispar の山の無人の荒れた砂漠の砦で隠修士として、瞑想と苦行の生活をおくった。その間外に出ず、誰ともいっさい会わなかった。その極限的行為はやがて人々の間で話題になった。305年頃砦から出ると、アントニウスにあやかろうという人々に一種の修道規則を教え、後の修道院の基盤を作った。ピスピルの砦の近くには修道院が建ち並んだ。アントニウスは「修道院の創設者」「修道士の父」と呼ばれるようになった。
● 第4の苦行は、61歳(AD312年)を超えて、コルズム山に向かって、第四の修行をした。ここで頻繁に病気を治す奇跡を起こしている。それが後に病気を治す聖者として崇められた理由であろう。
● 聖アントニウスが90歳になったとき、113歳になる隠遁者聖パウロを訪ねた。(グリュネヴァルトのイーゼンハイム祭壇画の第3面左翼では、大鴉が二斤のパンを持って舞い降りている下で、二人が抱きているのが描かれている。)聖パウロのもとを旅発った聖アントニウスは、天使が聖パウロの魂を運んでいるのを見る。ただちに引き返し埋葬しようとするが、穴を掘るすべがないので、どうしたものかとしているとライオンが2頭現れ穴を掘り姿を消したという。
● 聖アントニウスが105歳(AD356年)で死んだ後、2人の弟子はアントニウスの言いつけに従って、彼の聖遺骨を誰にもわからない所に埋葬したが、死後約200年たったAD561年にその墓(紅海のそば)が発見された。
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聖アントニウス教団 Hospitaller Order of St Anthony
o 聖アントニウスは、禁欲生活に入り、肉体的精神的の誘惑を体験し、ついにそれに打ち勝った。305年頃、その徳をしたって集まった人々に一種の修道規則を教え、後の修道院の基盤を作った。
o 聖アントニウスの死の直後の365年に、紅海沿岸北部のガッラーラ山麓のベレニスに、エジプト・キリスト教であるコプトの最古の修道院が建てられた。聖アントニウス修道院と聖パウロ修道院がある。紅海山の奥地にあり、泉を水の供給源としている。今日でも自給自足の生活が営まれていて、コプト禁欲主義の伝統が守られている。
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o 聖アントニウスが105歳(AD356年)で死んだ後、2人の弟子はアントニウスの言いつけに従って、彼の聖遺骨を誰にもわからない所に埋葬したが、死後約200年たったAD561年にその墓(紅海のそば)が発見された。聖骨はまずアレクサンドリアなどを経由して、1070年に時の十字軍によってコンスタンチノープルに運ばれ、さらに1000年ころになってフランスはリヨンの近くのベネディクト会修道分院へ、1491年に同じくフランスのランス近郊のサン・ジュリアン教会へ埋葬された。
o 聖遺骨は最終的に、Douphineドーフィネ州(ウィーンに近いフランス)に落ちつき、1093年にSaint-Didier de la MotheのSt. Anthony教会ができた。
o Douphine州の領主であるGaston de la Valloireは、聖アントニウスの聖遺骨の前で、「聖なる火」にかかった自分の息子のGerinの病が治ったら、病の救済のために富を使うと誓った。Gerinは聖アントニウスの加護のもとに、奇跡的に治ったことを感謝して、Saint-Didier de la MotheのSt. Anthony教会の近くに病院を建てた。
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o はじめは正式な教壇ではなかったが、1218年には、Honorius IIIから修道院の誓約を受け、1297年にはBoniface VIIIが教会の法規を与えた。それ以降、人々はこの病に冒されると、霊験あらたかな世アントニウスの巡礼に旅立った。
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o 修道士は、青いギリシャ語のTau文字(聖アントニウスの十字)をつけた黒い僧服を着ていて、病気の治療に捧げた。
o アントニウス修道会の参事会員達は、巡礼者を修道院に収容して、いくつかの薬草の効能、経験を積んだ四肢切断の技術、それにこの病気を防ぐ守護神とみられていた世アントニウスに対する信心にも続く手厚い治療を施した。聖アントニウス修道院は、単なる僧院ではなく、病院やホスピスの原型であろう。
o 聖アントニウス修道会は、托鉢を人々に知らせるとともに、疫病や悪霊を祓うために、鈴を愛用した。
o 修道士は、多くのブタを連れて歩いていて、ブタにも豚の首にかけられ、聖アントニウス救済修道会の豚であることがわかるようになっていた。豚肉には、炎症抑制と抗体産生に働くビタミンB群が豊富に含まれいるので、患者とともに豚肉を食べた。
o ドイツの近くのフランスのColmarのイーゼンハイム教会はその教団の主会はその教団の主流をなし、教会は病気の人々の治療の場となっていた。教団はから委託された。
o Grunewaldに1512〜1516年に祭壇画を製作した。
o 聖アントニウスの絵には、しばしばbell; book; crutch; hermit; man with a pig at his side; pig; Saint Anthony’s cross (T or tau-shaped); tau cross with a bell on the endが一緒に描かれている。
o 聖アントニウスは、しばしば錬金術師として描かれている。
o 聖アントニウスは、T型の杖を持ったが、これは、古代ギリシアの神杖「ケーリュケイオン(カドゥケウス)」である。もともとは水脈や道筋などを探索する方占棒であり、使者の持物として不可侵の象徴となった。それゆえ、これは、使者神ヘルメスの持物でもあり、また、脱皮して永遠に生きる地底の蛇を崇拝するオルプへウス教団の医薬神アスクレーピオスの持物でもある。「ケーリュケイオン」は、横木をヘルメスの羽で表し、一匹または二匹の蛇がからみつく姿で表現されることもある。
o 「聖アントニウス修道会」は、托鉢を人々に知らせるとともに、悪魔や疫病を避ける呪術のために、鈴を愛用した。
o 豚は不潔で邪悪であるものとされるが、聖アントニウス修道会は多くのブタを連れて歩き、患者とともに、おおいに豚を食べた。豚肉には、炎症抑制と抗体増成に働くビタミンB群が豊富に含まれていたからである。
◇ゲェルスドルフの外科教科書の「聖アントニウスの火」
o Hans von Gersdorf(1489〜1540, ストラスブルグの外科医)の外科教科書:「Feldbuch der Wundarzney」(1517)の挿絵に、Johann Grüninger(1480〜1526, ストラスブルグの画家・木版下絵作家)が制作した木版画「聖アントニウスの火」がある。(木版画に着色したものがフィラデルフィア美術館に所蔵されている。)
o 教科書には、その当時恐れられていた「聖アントニウスの火」に侵されて壊疽に陥った下肢を切断する手順が記述されていて、それを示す木版画はその記述のための挿絵として使われていた。
o 挿絵「聖アントニウスの火」の版画は、眠っている患者の足をのこぎりで切断している。挿絵の右後ろに立っていて、胸にはTの字をつけている男は左手を切断された患者で、切断された手の断端を動物の膀胱で包んでいる。
o ゲェルスブルグは、その当時繰り返された戦争の軍医として参加して経験を積み、200人もの壊疽あるいは丹毒患者に四肢切断術を行ったと言われている。切断された手足は病院の入り口に絵馬のようにつるされていたという。
o 四肢切断術は古くは、壊疽の部分で四肢を切断していたが、ゲェルスブルグの頃は壊疽部よりも近位で切断し、煮沸した油あるいは焼きごてを使って断端を止血し、化膿を予防する手術が行われていた。ゲェルスブルグは、断端の皮膚を縫合せずに、動物の膀胱で包んでいた。ゲェルスブルグは術前にアヘンで眠らせていた。
◇ブリューゲル(1525-1569)の「聖アントニウスの火に焼かれる病」
o この画はこの中毒症を良く表している。
o 手足をこの中毒で失った中央の人物の傍らには、その原因となったであろう食べかけのライ麦パンが見える。左下の健康な人物は小麦のパンを食べ頭の上の籠には暗示的な一足の靴、彼らの頭上にはあたかも両者を比べるように差し伸べられた手が描かれている。
o また、小銭の施しを受けているにもかかわらず中央の人物はその方向を見ていない。虚ろで不安に満ちた形相は幻覚の発現を表しているようでもある。
◇ブリューゲルの「聖アントニウスの誘惑」
◇クルーシブル
o 魔女狩りの原因ともなった麦角中毒は「Crucible」(るつぼ)という戯曲を元に「The Salem Witch Trials」が映画化されている。
o 1996, USA
「聖アントニウスの誘惑」は多くの画家・版画家の創作意欲を刺激し、たくさんの作品が残されている。
(聖アントニウスが誘惑するのではなく、「悪魔の誘惑と戦う聖アントニウス」)
◇「イーゼンハイム祭壇画 Isenheim Altarpiece」
o Matthias Grunewald(マティアス・グリューネヴァルト、本名マティス・ナイトハルト・ゴートハルト、1480〜1528, ドイツマインツ選帝大司教アルプレヒトの宮廷装飾家)作のドイツ絵画史上もっとも重要な作品の1つである
o もとはアルサス地方イーゼンハイムの聖アントニウス会修道院付属の施療院の礼拝堂の主祭壇に置かれていた。
o 18世紀末に、フランス革命の騒乱の被害を避けるため、コルマーに運ばれ、さらに半世紀を経て、ドミニコ派の修道院を改装したMusee d’Unterlinden,Colmar(ウンターリンデン美術館、アルサス地方のコルマール、イーゼンハイムの約20km北)に移された。
o グリューネヴァルトは、ドイツ・ルネサンスの巨匠デューラーと同世代であるが、グリューネヴァルトの様式は「ルネサンス」とはかなり遠く、系譜的には「ルネサンス」というよりは末期ゴシックの画家と位置づけるべきであろう。
o 礼拝堂の守護聖人聖アントニウスの木像を安置する祭壇の祭壇画である。
o 扉を閉じた状態の時は、中央と左右のパネル、それにプレデッラ(祭壇下部の横に長い画面)の4つの画面が見える。第1面の右パネルには聖アントニウスの像がある。
o 聖アントニウスは、古代エジプトにおいて不死の象徴であるエジプト十字の形をしたT字型の杖を持っている。
o 第3面、一番奥祭壇彫刻はニコラス・ハーゲナウによって既に修道院に設置されていたもの。その30年後にグリューネヴァルトが両翼3段重ね観音開きの大祭壇画を完成させた。第3面、左翼は「聖アントニウスの聖パウロ訪問」、右翼は「聖アントニウスの誘惑」。
左翼では、大鴉が二斤のパンを持って舞い降りている下で、聖アントニウスと聖パウロが抱きているのが描かれている。
右翼の中央のひげを蓄えた人物が聖アントニウス。頭巾のついた青い修道服をまとって、本を開きながら呆れたようにふりむいている。腰に鈴をぶら下げ、傍らに杖を置いている。病気に蝕まれた人間や怪物が登場している。
◇Hieronymus Bosch(ヒエロニムス・ボス 1450−1516、ルネサンス期のフランドルの画家。ボスは通称で、ファン=アーケン(van Aken)が本名だったらしい。)
The Temptation of St. Anthony
o リスボン国立美術館。ベルギー王立美術館にも、リスボンのものを忠実に模写した作品がある。
o 三連祭壇画
o 中央の絵の中央で、ひげを蓄え、頭巾がついた青い修道服を身にまとって、ひざまずいている老人が悪夢に苦しむ聖アントニウスである。
o 後ろに片足を失った音楽史が描かれている。ブタも描かれている。
o 聖アントニウスのまわりには、聖アントニウスを誘惑する人間やグロテスクな化け物の姿をした魔物が一杯描かれいる。魚の半分はゴンドラであり、アザミの頭の男がいたり、シュールレアリがムの世界である。ボスの時代、悪魔と天罰が実在し、魔女が力をふるい、反キリストが出現してこの世を悪で満たすだろうと思われていた。
o 左翼—聖アントニウスの飛翔と墜落ー地獄に拉致され、同僚に連れ戻されるところ。前景には意識を失い仲間に抱えられて橋を渡るアントニウスが描かれており、上の空では魔物たちに投げられたアントニウスのまわりを怪物たちが飛び回っている。
o 右翼—聖アントニウスの瞑想
o この作品には多くの”謎の生物(怪物?)”が出てくるが、特に頭と足だけの「グリロ」という生物が多い。
◇マルティン・ショーンガウアー
o メトロポリタン美術館(ニューヨーク)1475年ころ
o 銅版画
o 聖アントニウスは修道士の僧服とマントを身につけている。
o 悪魔は、針ネズミのように尖った針に覆われていたり、全身がうろこ状だったり、またなめし皮のような質感だったり
◇ブリューゲル(1525〜1569)
◇Salvator rose(1525〜1569)
The temptations of Sacint Anthony
ローザの描く悪魔は、岩や木の枝に似ている。
◇David Teniers The younger(ダフィット・ テニールス(子)、1610−1690)
The Temptation of St. Anthony
o ブリュッセル
o 17世紀フランドル派を代表する画家の作品
o 荒野で隠遁生活をおくる聖アントニウスが、悪魔の誘惑にさらされている場面。
廃墟の見える風景の中で、さまざまな魔物に囲まれて、鳥の鈎爪の足をした美女が、老人に向かってグラスを差し出している。
◇ダリ(1904〜)
La tentation de Saint Antoine
o ベルギー王立美術館
o 伝統的な宗教画と違い、ダリにかかると苦行のイメージが消え、不思議な清新さと幻想的な雰囲気が伝わってくる。
o 「空」と「地」を介在するクモの足を持つ馬や象が聖アントニウスを誘惑する悪魔である。
先頭の馬はたけり狂い、一番前の象の背中には肉欲を象徴する美女が姿を現し、十字架を高く掲げる聖アントニウスを挑発している。
◇クロード・ロラン
マドリッド: プラド美術館
◇ヤン・マイデイン
◇ジャック・カロ
o パリ、国立図書館蔵
o 銅版画(1634年) ボッスからに影響される。
o 画面いっぱいにひしめき合う悪魔たちの姿には、戦争や、当時流行していたペストの影が宿っている。悪魔たちの姿は恐ろしいというよりもどこか滑稽である。
◇Gustave Flaubert(ギュスターヴ・フローベール 1821/12/12〜1880/5/8, 『ボヴァリー夫人』(1857年)を書いた作家)
「聖アントワーヌの誘惑」—劇形式の散文作品
o 聖アントニウスの眼前に一夜の間、肉欲を象徴する芝の女王をはじめ、様々な異端の神や偶像、畏敬の怪物が登場して、誘惑の言葉を重ねる。最後に聖アントニウスは、地上のあらゆる動植物の誕生と生育のさまを幻想に見て、換気の叫びをあげる。折しも、夜が明けて、差し上がる日輪のただ中にキリストの顔が輝くのを見て、十字を切り、祈りを捧げる。
o Odilon Redon(オディロン・ルドン 1840−1916)がフロベールの構想し生み出した「聖アントワーヌの誘惑」のための挿画集をとして白黒のリトグラフを作成している。
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血管痛
● 末梢静脈では高浸透圧の濃い輸液などで血管痛が生じ、血管炎に至ることがある。
● プロポフォール注入時に血管痛
● ロクロニウムも血管痛を引き起こす。